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神戸地方裁判所 昭和53年(ワ)230号 判決 1988年5月16日

原告

白藤久子

右法定代理人親権者父

白藤眞佐男

同母

白藤安代

原告

白藤眞佐男

原告

白藤安代

右三名訴訟代理人弁護士

古本英二

被告

兵庫県

右代表者兵庫県知事

貝原俊民

右訴訟代理人弁護士

大白勝

松岡清人

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告白藤久子に対し、金五三四七万八五六一円及び内金四九五七万八五六一円に対する昭和五三年三月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告白藤眞佐男及び同白藤安代に対し、各金五五〇万円及び各内金五〇〇万円に対する昭和五三年三月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告白藤久子(以下「原告久子」という。)は、昭和五一年五月二六日原告白藤眞佐男(以下「原告眞佐男」という。)と同白藤安代(以下「原告安代」という。)間の長女として出生した子であり、被告は、兵庫県立こども病院(以下たんに「被告病院」という。)の開設者である。そして、小川恭一及び堀越一彦(以下個別するときは「小川医師」「堀越医師」といい、総称するときは「小川医師ら」という。)は、昭和五二年当時被告病院に勤務していた医師であり、被告の指導監督に服していたものである。

2  医療契約の締結及び本件損害の発生

(一) 原告久子は、昭和五一年一二月上旬ころから心室中隔欠損症の疑いをもたれており、昭和五二年二月四日以降、被告病院に通院して診療を受けていたものであるが、同年三月二日被告病院に入院して検査を受けたところ、同月四日肺高血圧症を伴った心室中隔欠損症であり、二、三歳まで手術を延ばせば肺機能の回復が不可能となるので、早期に根治手術をすることが必要である旨診断された。そして、心臓外科の主治医である小川医師が、原告眞佐男及び同安代に対し、根治手術は合成繊維で欠損部の穴をふさぐという簡単なもので、被告病院でも失敗例はなく安全なものであると説明し、かつ、術後三か月ないし六か月で完治して正常人同様の生活ができる程度にまで回復すると確約し、その旨を育成医療意見書にも記載したことから、原告眞佐男及び同安代は右根治手術に同意することとし、自らも契約当事者となるとともに、原告久子の法定代理人としての資格をも兼ねて、被告との間で、原告久子の心室中隔欠損症根治手術及びその術前、術中、術後における適切かつ完全な医療の施行を内容とする医療契約(以下「本件契約」という。)を締結した。

(二) 原告久子は、同年四月七日、脳内科及び脳外科において全く異常がないとの診断を受けた後、手術関係の主治医である堀越医師の執刀により、フローセンを使用した全身麻酔の下、欠損部をパッチで縫合閉鎖する手術を受けたが、一度目の縫合が不完全で三尖弁の逆流を生じたため、再度切開して縫合をやり直す必要を生じ、これを行った結果、当初予定の約一時間の手術が九時間にも及び、人工心肺の使用時間も約三時間という長時間に及んだ。

(三) ところで、右手術の結果欠損部の縫合自体は成功したものの、手術後しばらくの間原告久子の意識は回復せず、やがて低酸素脳症を原因とする脳障害が生じていることが判明した。そして同年八月原告久子は脳性麻痺による四肢機能障害者等級第二級に認定された。

3  責任原因

原告久子が右のように脳性麻痺による四肢機能障害を負うに至ったのは、被告病院における小川医師らの本件手術及びその術前、術中、術後の医療措置が不適切、不完全であったためであるが、その詳細は次のとおりである。

(一) 術前管理の過誤

(1) 小川医師らは、原告久子に対して適切な術前管理を行うべきであるのにこれを怠り、同原告が一晩中眠らず号泣しているなど神経的にも肉体的にも相当悪い状態で手術不適応であったにもかかわらず本件手術を施行した。

(2) 小川医師らは、原告久子の肺胞機能に関して、長時間の全身麻酔により酸素欠乏状態にならないかを事前に十分検査すべきであるのにこれを怠り、漫然本件手術を施行した。

(二) 手技の過誤

本件手術のような心室中隔欠損症根治手術は心臓外科医として多数経験する手術であり、欠損部分のパッチ縫合は格別に困難な手技であるともいえないから、小川医師らは手技を誤ることなくパッチ縫合をすべきであるのにこれを怠り、手技を誤り欠損部分の一度での完全な閉鎖に失敗し、再度の縫合術を必要とした。このため、人工心肺を約三時間もの長時間使用するところとなり、これにより末梢循環不全、血液成分破壊等の合併症をもたらし、また、約九時間もの長きにわたりフローセンによる全身麻酔を続けたことにより酸素欠乏症をもたらし、これらに起因する低酸素脳症を生ぜしめた。

(三) 手術続行の選択の過誤

人工心肺の通常の使用時間は約一時間であり、二時間以上に及べば合併症である酸素欠乏症を生ずる危険域に入るとされているところ、原告久子は生後一〇か月余で体力的にも恵まれていなかったのであるから、小川医師らは、欠損部のパッチ縫合閉鎖が完全でないことを認めた場合にも、人工心肺の使用時間がより短時間ですむ方法を選択すべきであるのにこれを怠り、一度目の縫合失敗後、直ちに再縫合を行うことを選択、実行して約三時間もの長時間人工心肺を使用し、その結果酸素欠乏症による低酸素脳症を生ぜしめた。

(四) 術後管理の過誤

小川医師らは、原告久子の動脈血酸素分圧が低下した場合、適切な方法により酸素を投与してその改善を図るべきであるのにこれを怠り、術後同原告の動脈血酸素分圧が低下しているにもかかわらず、漫然と濃度六〇又は八〇パーセントの酸素を投与したにすぎず、そのため酸素欠乏症による低酸素脳症を生ぜしめた。

4  原告らの損害

(一) 原告久子の逸失利益

一七八四万三七六一円

原告久子は、本件手術以後脳性麻痺特有の諸症状が持続し、昭和五八年三月九日(生後六年一〇月)に至っても、諸機能において八か月ないし一年三か月の幼児程度の能力しかなく、また発達指数一四といったように重度の精神発達遅滞であって、将来にわたりこれが改善される見込もない。したがって、原告久子は生涯就労することは不可能であり、その六七歳までの逸失利益は、昭和五〇年度の産業計、企業規模計、学歴計の女子平均年収に2度1.044を乗じて昭和五二年度の平均年収を求め、これに右期間の新ホフマン係数16.419を乗ずると1784万3761円となる。

(72,900×12+122,300)×1,044×1,044×16,419=17,843,761)

(二) 原告久子の介護費用

二一六三万四八〇〇円

原告久子は右のような状態から生涯介護を必要とするところ、介護に要する費用は、年間費用額一二〇万円を相当とし、その三〇年分(新ホフマン係数18.029)二一六三万四八〇〇円を請求する。

(三) 慰謝料

(1) 原告久子 一〇〇〇万円

(2) 原告眞佐男及び同安代 各五〇〇万円

(四) 弁護士費用

(1) 原告久子 四〇〇万円

(2) 原告眞佐男及び同安代 各五〇万円

(五) 合計

(1) 原告久子 五三四七万八五六一円

(2) 原告眞佐男及び同安代 各五五〇万円

5  よって、原告らは、被告に対し、主位的には、本件契約上の債務不履行責任に基づき、予備的には、民法七一五条所定の使用者責任に基づき、損害金として、原告久子が五三四七万八五六一円、原告眞佐男及び同安代が各五五〇万円並びに原告久子に対する内金四九五七万八五六一円、原告眞佐男及び同安代に対する各内金五〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五三年三月一九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)の事実のうち、小川医師が本件手術の安全性及び原告久子の回復を確約したことを否認し、その余は認める。ただし、原告久子に対する診断は、手術を二、三歳まで延ばせば肺血管の閉塞性病変が進行し、手術もできなくなるおそれが強く、肺の回復が不可能になり死亡に至る確率が高いというものである。

同2(二)の事実のうち、昭和五二年四月七日に本件手術を施行したこと(ただし、執刀医は小川及び堀越医師である。)、全身麻酔にフローセンを使用したこと、再縫合術を実施したこと、本件手術に要した時間が約九時間であること、人工心肺の使用時間が約三時間であることは認めるが、その余は否認する。

同2(三)の事実のうち、最終的に欠損部の縫合自体は成功したこと、原告久子に脳障害が発生したこと、その原因が低酸素脳症であることは認めるが、その余は否認する。

3  同3の小川医師らの過誤に関する主張は、いずれも否認ないし争う。

4  同4の事実は、生存年数ないし稼働年数を含めてすべて争う。

三  被告の主張

1  原告らに対する説明

小川医師らは、原告眞佐男及び同安代に対し、肺高血圧症を伴う心室中隔欠損症の根治手術は、生後一二か月以下の乳児にあっては内科的治療が困難な場合か肺血管抵抗が異常に高い場合に限られること、原告久子は肺血管抵抗が高いので早期に手術をする必要があること、乳児に対する根治手術は、他の年令層に対するそれよりも難しく、原告久子の場合その年令、症状からして種々の問題を含み特に難しいこと、一〇人に一人が死亡する危険のある手術であること、人工心肺を中心とした体外循環施設を使用することにより各臓器に手術合併症を生ずる可能性があること、他の事例を用いて縫合方法、手術時間等を説明して原告眞佐男らの同意を求めたのであって、安全性を確約したことはない。

また、乳児の手術費用につき児童福祉法上の育成医療の給付を受けるためには、内臓障害の場合、手術によって将来生活能力を得る見込のあることが必要とされており、このため給付申請に必要な育成医療意見書には正常人同様の生活ができる程度に回復する見込と定型的に記載するのを通例としている。そこで原告久子のための育成医療意見書につき、小川医師らもこの通例に従って記載したまでのことであって、原告眞佐男らに対し、原告久子の回復を確約したことはない。かえって、肺血管抵抗の高いことから肺の病変が回復するかはわからない旨説明している。

2  原告久子の脳障害の原因

原告久子の脳障害を引き起こした低酸素脳症の原因は、高度のセプテイティス(肺胞隔壁におけるリンパ球様小円形細胞の浸潤とそれによる肺胞隔壁の肥厚)による肺機能の低下に起因して動脈血酸素分圧が低下し、これに低心拍出量症候群が加わり、脳への酸素供給が不十分となったことにある。

3  小川医師らの無過失

(一) 術前管理

(1) 被告病院では、胸部レントゲン写真、心電図、心カテーテル、心血管造影等の諸検査の結果から、原告久子が肺体血圧比1.14(正常値は0.3以下)といった非常に高度な肺高血圧症を伴い、かつ大きな欠損孔を持つ心室中隔欠損症であり、しかも肺体血管抵抗比も0.65(正常値は0.2以下)と手術適応の範囲内にあるとはいえ高く、このまま放置すると肺血管の閉塞性病変が進行して不可逆的となり、手術も不可能となって死亡に至る可能性が高いことから、可及的早期の根治手術が必要であると判断したが、手術の適否についてさらに慎重を期して肺シンチグラム検査を実施し、右諸検査を検討したうえで原告久子が手術の適応範囲内にあると判断したのであるから、小川医師らには手術適応の判断について何ら過誤はない。

(2) 小川医師らを含む被告病院のスタッフは、昭和五二年四月五日の原告久子の入院以降、術前検査として胸部レントゲン写真、心電図、血液検査等の諸検査を実施し、術前管理として強心剤、鎮静剤の投与を含む全身状態の管理を手術直前まで行ったが、その間一時38.3度にまで達した発熱もすぐにおさまっており、手術の侵襲に耐えられないほどの全身状態の悪化を来たしたような事情も全くなく、術前管理に何ら過誤はない。

(二) 手術中の無過失

(1) 本件手術の経過

小川医師らは、本件手術において、まず輸血路の確保、導尿用、中心静脈圧測定用、末梢動脈圧測定用チューブの挿入、直腸温、大腿筋温測定用温度ブローブの挿入、心電図測定ブローブの設置等の措置をした後、全麻酔下にて皮膚切開を行い心臓を露出後、人工心肺装置を装着して体外循環下に右心室切開を行って欠損孔をパッチにて縫合閉鎖した。ところが右心室切開部を縫合後、心拍動を戻してみたところ、血圧の上昇が十分でなく右心房にスリルを触れ、三尖弁の逆流が認められたので、再度右心室を開きパッチの一部を縫合し直し三尖弁輪を縫縮して心拍動を開始せしめたところ、今度は心内圧測で十分な血圧と良好な循環動態が得られたので人工心肺を離脱し、胸壁を閉鎖して手術を終了した。麻酔導入開始は午前八時五五分、終了は午後五時四〇分で、人工心肺の使用時間は午前一一時五三分から午後一時三〇分までの九七分間、午後一時三五分から午後二時五二分までのうちの七五分間合計二時間五二分であった。

(2) 人工心肺の還流操作の適正

本件手術を含む心手術において人工心肺の使用は必要不可欠であるところ、本件手術中の体外循環時における血流量、還流圧、温度、中心静脈圧、動脈血ガス分析、人工肺への酸素供給量、尿量、使用薬剤の数値・資料にも何ら異常はなく、小川医師らを含む本件手術のスタッフの人工心肺の還流操作は適正かつ良好に行われていた。

(3) 人工心肺の使用時間の適正

本件手術当時、乳児に対する人工心肺の使用許容時間は三時間程度とされ、さらに年長児まで含めれば一般に五時間までは安全であるとされ、現に三時間以上使用した成功例も多く存在していたから、小川医師らが本件手術において人工心肺を右許容時間内の二時間五二分使用したことには何ら過誤はない。

(4) パッチ縫合手技について

心室中隔欠損症のパッチ縫合手術は、小さく脆弱かつ未発達の器官の狭小な部分を対象とすることもあって、それ自体困難な部類に属する手術であるが、本件において原告久子の直径一二ミリメートルの欠損孔は、心室上稜部の直下、三尖弁の付着縁に存在していたところ、その欠損下縁には心臓の自律運動をつかさどる刺激伝導系が走っているため、この刺激伝導系を傷つけないように配慮しながら欠損孔の外縁に糸をかけて漏れのないように縫合しなければならず、パッチ縫合術の中でも極めて難度の高いものである。このように縫合手術が難度の高いものである以上、執刀者がいかに注意を尽くしたとしても、欠損孔の不完全な閉鎖、三尖弁の閉鎖不全による逆流、刺激伝導系の異常といった事態は発生しうるのであり、またその有無の確認は、現在の外科水準では欠損孔の閉鎖を終えた段階で自然拍動に戻すことによってのみ確認することができる。したがって、小川医師らが一回の縫合で欠損孔を完全に縫合することができなかったとしても、それは重篤の心室中隔欠損症を根治する目的をもった本件手術中の連続する手技の一場面にすぎず回復不能又は不可逆的な事態でもなく、さらに右のとおり本件手術が極めて難度の高いものであり、縫合手術中に閉鎖の完全性を確認することが不可能であることからすれば、そのことをもって小川医師らに過誤があったということはできない。

(5) 手術続行選択の適正

本件のように三尖弁の逆流が認められた場合、一般的には再び人工心肺を作動させて補修的措置を行うべきであるとされているところ、担当医師は、縫合し直すか否かの判断に際しては、当該閉鎖不全が手術の成否に影響するか、影響するとして手術目的に照らし直ちに縫合をやり直す必要があるか、患児の全身状態、特に人工心肺使用時間との関連において安全を保ちつつ手術を完了することができるか等医療上極めて専門的かつ微妙な考慮をごく短時間のうちにしなければならないが、その適切な判断は執刀医及び主治医のみがなしうるものである。

本件においては、一回目の縫合を終え体外循環を停止させて自然拍動に戻した直後、血圧低下、中心静脈圧の上昇などがみられ、原告久子は低心拍出量症候群の状態にあったところ、スリルを触れたので、三尖弁閉鎖不全が循環動態に影響を与えているものと思料され、直ちに縫合術をやり直さなければ早晩死亡に至る可能性が高いと判断されたために再度縫合術を実施したのであって、小川医師らの手術続行の選択、実施に何ら過誤はない。

また、以上の経過に鑑みれば、仮に約三時間に及ぶ人工心肺の使用が原告久子の脳障害の一因となったとしても、いわゆる許された危険の範囲に属するものとして、小川医師らの手術続行の選択、実施には違法性がない。

(三) 術後管理の無過失

小川医師らは、原告久子に対して本件手術直後から人工呼吸器による調節呼吸を行い、循環動態は強心剤の継続投与等により比較的安定していたが、その後術後によくみられる呼吸不全の状態が持続したことから、高濃度の酸素を投与して十分な動脈血酸素分圧が得られるように措置し、四月八日にはさらに低心拍出量症候群の状態が強まってきたためそれに対する治療を行ったところ、徐々に呼吸不全は改善し、同月一一日には投与酸素濃度を五〇パーセントに下げてもほぼ満足すべき動脈血酸素分圧が得られ自発呼吸を生じたので、補助呼吸を試みてみたが、循環不全が強まったため調節呼吸を再開するに至った。そして同月一二日には、筋弛緩剤の投与を中止するも原告久子は開眼して対光反射も正常であり、疼痛に対する反応も示したので、意識状態は良好であると認められたが、翌一三日午後から四肢屈曲、硬直、不随意運動を繰り返すようになり、脳障害の疑いが生じたため、脳波測定とともに脳障害に対する治療を始め、自発呼吸管理も開始した。その後、呼吸動態、循環動態は比較的安定し、同月一六日には気管内チューブを抜去して完全な自発呼吸下における呼吸管理を開始し、以後安定した状態を持続したので脳障害に対する治療を継続した。

以上のように、小川医師らを含めて被告病院のスタッフは、原告久子の状態に応じて適切な術後管理を行ってきたのであって、何ら過誤はない。

(四) 不可抗力

現在の医療水準では、患児の肺機能が手術の侵襲にどの程度耐えうるか、また、患児の肺機能の不良に低心拍出量症候群が加わり、脳への酸素供給が不十分となって脳障害を招来するか否かを術前に予見することは不可能であるところ、医療の対象である人体には未知の部分が多くしかも個体差があるので、患児の素質如何により、ときに手術合併症が発生するに至ることは、現在の心臓外科の水準では不可抗力による事態である。

四  被告の主張に対する原告の認否

被告の主張はすべて争う

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1の事実(当事者)、同2の事実(本件契約の締結及び本件損害の発生)のうち、原告久子が昭和五一年一二月上旬から心室中隔欠損症の疑いをもたれており、昭和五二年二月四日以降被告病院に通院して診療を受け、同年三月二日被告病院に入院して検査を受けたところ、肺高血圧症を伴った心室中隔欠損症であると診断されたこと、担当の小川医師が術後正常人同様の生活ができる程度にまで回復する見込と育成医療意見書に記載したこと、原告久子、同眞佐男及び同安代と被告との間において、本件契約が締結されたこと、同年四月七日、フローセンを使用した全身麻酔のもと欠損部をパッチで縫合する本件手術が施行されたこと、その結果、欠損部の縫合自体は成功したものの、術後原告久子が低酸素脳症に起因する脳障害を負うに至ったこと、本件手術に要した時間が約九時間であり、その間人工心肺を使用した時間は約三時間であことは、当事者間に争いがない。

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  原告久子は、昭和五一年五月二六日に原告眞佐男及び同安代の間に長女として出生したものであるが、同年八月突発生発疹症(小児バラ疹)に罹患し、また被告病院において、同月一二日潜在性脊椎破裂、同年九月七日には神経因性膀胱と診断されてはいたが、冬季に入って風邪をよくひき気管支炎にかかった程度で運動障害、精神的発育障害の徴候はみられず成育した。

(二)  原告久子は、同年一一月右気管支炎の診断を受けた際に心疾患の指摘を受けていたところ、同年一二月及び昭和五二年二月に被告病院の循環器科において、胸部レントゲン写真撮影、聴打診、心電図等の検査を受けた結果、肺高血圧症を伴う心室中隔欠損症の疑いをもたれるに至った。そこで、昭和五二年三月二日から一週間検査のために被告病院に入院し、主治医鄭医師の下で心電図、レントゲン撮影、血管検査、心臓カテーテル及び心血管造影検査を受けたが、その結果、一二ミリメートル径のⅢ型欠損(欠損孔の上縁が心室上稜部にあり、後側方が三尖弁からなるもの)を有する重症の心室中隔欠損症であることが判明し、しかも、肺体血圧比(肺動脈収縮期圧の系統動脈収縮期圧に対する比)は、高度肺高血圧症(右の比が0.75以上の場合。正常値は0.3以下。)の中でも非常に高度の部類に属する1.14を示し、肺血管抵抗比(肺動脈抵抗の系統動脈抵抗に対する比)は、0.2が通常のところ0.65を示していた。そして被告病院循環器科では、肺血管抵抗比が手術適応の限界とされる0.75に近いことから、心室中隔欠損症根治手術に対する適応の有無を更に検討するため、兵庫県ガンセンターに原告久子の肺シンチグラム検査(肺血管の閉塞性病変の程度を判定するために肺血流分布上下比を測定する検査)を依頼したところ、上下比は0.7であり、通常値の上限ではあるものの手術不適応域である1.2を超えるものではないことが判明した。

右各検査終了後、原告久子は心外科へと移されたが、同科の小川医師は、以上の検査結果から認められる諸事情、すなわち肺血管抵抗比、肺血流分布上下比とも手術適応の範囲内にあること、非常に高度の肺高血圧症を伴った欠損部径の大きい重症の心室中隔欠損症であり、肺血管抵抗比も手術適応の範囲内にあるとはいえ高いことから、放置しておくと肺血管の病変が進行して手術の適応外になるおそれがあり長期間の生存が望めなくなること、肺動脈絞扼術等の姑息手術も、その後の根治手術の際に癒着部分及び絞扼に使用したテープを剥離するのに危険を伴うこと、人工心肺を使用する場合の安全年齢である生後六か月以上に達していること、脳内科において原告久子が罹患の潜在性脊椎破裂が手術に支障を来たすものではないと判断されていること等に鑑みて、気泡型の人工心肺を使用して中隔欠損部にパッチを縫合する開心根治手術を実施するのが相当であると判断した。

(三)  小川医師は、右判断に基づき、原告眞佐男及び同安代に対し、原告久子の心室中隔欠損症は重症で肺体血管抵抗比も高いことから早期に手術をする必要があること並びに手術方法の概略及びその危険性について、被告病院における手術成績を示しながら説明したが、この説明を聞いた原告眞佐男らは本件手術の施行に同意することとし、自らも契約当事者になるとともに、原告久子の法定代理人としての資格をも兼ねて、被告との間で、原告久子の心室中隔欠損症根治手術及びその術前、術中、術後における適切かつ完全な医療の施行を内容とする本件契約を締結した。その際、小川医師は、本件手術につき原告久子が児童福祉法上いわゆる育成医療に要する費用の支給を受けられる手続をとり、手術費用につき育成医療の公的給付を受けるためには完治及び社会復帰のできることが条件となっていたし、また本件手術による治癒の可能性も高いと判断されたことから、右手続のために提出する育成医療意見書(甲第一〇号証)には「正常人同様の生活ができる程度回復出来る見込」と記載した。そして原告久子は、昭和五二年四月五日本件手術のために被告病院に再び入院したが、その際、主治医として担当することになった堀越医師は、原告眞佐男及び同安代に対して、原告久子の症状の重篤性、本件手術の困難性、補助手段としての人工心肺の使用及びその影響、術中術後の合併症発生の危険性、手術時間等について説明した。

(四)  小川医師らを含め被告病院のスタッフは、原告久子入院後血液検査、胸部レントゲン写真撮影を行って手術に備えるとともに、随時血圧、体温、脈拍数及び呼吸数を測定するなどして原告久子を看護していた。

原告久子は、低体重(本件手術時六〇一〇グラム)で全体にか細く発育不良の状態にあったところ、啼泣くして鼻汁を出すなどし、また心雑音もあり、入眠時の脈拍数、呼吸数ともに正常児に比べて多い方ではあったが、心室中隔欠損症の患児として格別に悪い状態ということもなかった。また、体温が一時的に三八度くらいまで上がったこともあったが、乳児、特に心室中隔欠損症の患児は、体温がわずかながら高く、啼泣によってすぐに上昇するのが通常であって、原告久子の場合も特に問題とするような高熱ではなく、手術に差支えのある肺炎、風邪、扁桃腺炎、尿路感染を原因とするようなものでもなかった。そして、右発熱も間もなく平熱に戻って本件手術の障害になるようなことはなく、その後本件手術後まで不随意運動等脳障害の徴候とみられるような症状はなかった。

(五)  本件手術には、堀越医師が執刀医、小川医師を始めとするその他の本件手術のスタッフが介助者として当たることになったが、昭和五二年四月七日午前七時二〇分、小川医師らは、原告久子に対して、筋弛緩剤アタラックスシロップ、交感神経抑制剤硫酸アトロビンを投与し、午前八時五五分フローセンを使用する麻酔の導入を開始した。その後間もなく発熱があったものの、投薬及び麻酔による影響が原因とみられ手術の施行自体に格別の問題はなく、動脈系及び静脈系に薬剤を注入し、諸数値測定のための種々の挿管を施したうえで、午前一〇時〇五分に執刀を開始し、胸骨正中切開によって心臓露出後心膜を切開、さらに大動脈、肺動脈及び上下大静脈にテープを回して送血チューブを大動脈に、抜血チューブを右心房から上下大静脈に挿入した。午前一一時五三分人工心肺の作動を開始し、酸素の消費量を減らすためにサーモチェンジャーにより体温を低下させた後右心室を切開したが、その後は小川医師が主に三尖弁の一部を含めた欠損部の周囲組織と径一五ミリメートルのテフロン布片(パッチ)とに糸をかけ、堀越医師がその糸を結ぶという分担のもとに手術を進め、午後〇時五八分パッチ縫合を終了して右心室を閉じ、午後一時三〇分人工心肺の作動を停止した(ここまでの人工心肺の使用時間一時間三七分)。ところが自然拍動に戻して心臓を動かしてみたところ、右心房にスリル(振顫)を触れ、また血圧が下降するとともに中心静脈圧が上昇してきており、いわゆる低心拍出量症候群の状態に陥っていたため、三尖弁閉鎖不全の疑いを生じ、このまま放置したのではその日のうちにも死亡に至る可能性が高いと判断された。そこで小川医師らは、直ちに再縫合にとりかかることとし、午後一時三五分人工心肺を再び始動させ、再度開心してみたところ、パッチの一部が三尖弁を押さえており、その膜がよじれて一部に裂け目を生じているのを発見したため、パッチを三分の一ほどはずし、裂け目を重ね合わせて隙間をなくしたうえで糸をかけ直し縫合を終了したが、確認したところ今度はスリルを触れることもなかったので、午後二時五二分人工心肺をはずした(再開後ここまでの人工心肺の使用時間一時間一五分)。人工心肺をはずす際にも何らの障害はなく、胸腔、心嚢等にドレーンを挿入して排液し、心臓ペースメーカーのワイヤーを心筋に挿入するなどして午後五時一〇分手術を終了した。

(六)  人工心肺の使用時間は、右のとおり前後を合計して二時間五二分であるが、その使用開始に際しては、人工心肺担当医がポンプとローラーについて還流量を測定して十分に機能することを点検しており、また使用中にも、麻酔医及び人工心肺担当医が還流量、血圧、動脈血の酸素分圧及び二酸化炭素分圧、酸アルカリ度、体液中の塩基量、血液・筋肉・直腸の各温度を測定していたが、右測定値に格別の以上はなく、人工心肺装置にも何ら機械的故障は発生していなかった。そして本件手術終了後手術室を退室するころまでには、けいれん等の発現を妨げるという副次的効果をもつ筋弛緩剤の薬効もある程度弱まってきてはいたが、原告久子にはけいれん等異常な徴候は全くみられなかった。

(七)  主治医の堀越医師を中心とする被告病院のスタッフは、心室中隔欠損症根治手術後は一般に重篤な状態が続くことから、集中治療室(IOU)において輸血を開始するとともに、随時体温、脈拍、血圧、中心静脈圧、血液の酸アルカリ度、酸素分圧及び二酸化炭素分圧等を測定し、また胸部レントゲン写真を撮影するなどして原告久子の容態を監視し、さらに筋弛緩剤ミオブロックを適宜、排尿が不良であったため利尿剤ラシックスを頻回にわたり、また強心剤プロタノール、ジギラノーゲンOを継続的に、それぞれ投与した。

そして小川医師らは、原告久子の呼吸管理について、過高濃度の酸素を長時間にわたって投与すると肺胞に病変を生ずるおそれもあることから、当初五〇ないし六〇パーセントの濃度の酸素を投与して調節呼吸を実施していたが、通常ならば八〇ないし一〇〇ミリメートルHgあるべき動脈血酸素分圧が、手術当日には一〇〇ミリメートルHgはあったにもかかわらず、翌四月八日午前〇時ころには七〇ミリメートルHgに下降し、さらに午前二時ころには五五ミリメートルHgに下降したため、投与酸素濃度を八〇パーセントに引き上げ、プロタノールを増量した。しかしその後、一時は一三〇あるいは九二ミリメートルHgと持ち直したものの、同日午後二時ころには再び六四ミリメートルHgにまで下降するに至ったので、酸素濃度を一〇〇パーセントに引き上げ、さらに陽圧終末呼気法(PEEP)を併用した。ところが、午後八時半から九時半にかけて、脈拍数が上昇し、全身が青白く末梢冷感や冷汗が顕著となり、筋肉温と直腸温との差も開いてきたことなどから、堀越医師は、低心拍出量症候群の症状が強まってきたものと判断し、これに対して筋弛緩剤、血管拡張剤(POB)を投与するなどしてその改善に努めたが、その結果翌四月九日正午すぎには、動脈血酸素分圧が二八〇ミリメートルHgまで上昇してきたので、酸素濃度を順次八〇パーセント、五〇パーセントに下げたところ、以後は一〇〇ミリメートルHg以上で安定してきた。そこで四月一一日に至り自発呼吸を試みたが、循環動態が不安定となったため、再び調節呼吸を実施した。

(八)  ところが、同日午前一〇時すぎ筋弛緩剤の効果がきれたころ、原告久子は開眼しており対光反射は正常に認められたものの、両手指を律動的に動かしたり、眼球を右方へ振動させるなどのけいれんを起こすに至り、筋弛緩剤ミオブロック投与後右けいれんは消失したが、四月一二日午前一時すぎには口腔より多量の唾液を流出させ、頻回にわたって脈拍数、血圧、中心静脈圧が上昇するに至ったことから、自律神経失調障害が疑われていたところ、午後一時ころには、四肢を硬直させ、右上肢に振顫様の運動を生じ、さらに同月一三日には四肢を屈曲硬直させて不随意運動を繰り返し、眼球も右方へ偏って動くに至り、全体に意識障害を呈するようになった。そこで堀越医師は脳障害を想定し、被告病院脳内科の医師に診断を依頼したところ、右医師も全般にわたる脳障害と判定するに至ったが、本件手術時から継続的に筋弛緩剤を使用していたことから、脳障害の発症時期を確定することはできなかった。

(九)  原告久子の循環動態は、四月一三日ころから比較的安定し、その後心臓、肺の方にも異常はみられず、本件手術自体は成功したものとみられた。しかし、原告久子の意識状態は急速に改善していったものの、昭和五二年八月には点頭てんかん様発作も生ずるに至り、これもやがて鎮静化したとはいえ、脳障害が根本的に改善するには至らなかった。

原告久子が脳障害に至った経緯は以上のとおりであると認められる。原告安代本人尋問の結果中右認定に反する部分はその余の前掲各証拠に照らして採ることはできず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

二そこで原告久子の脳障害(脳性麻痺)の原因について検討する。

前記認定の経過からすると、本件手術がなされなかったならば、原告久子が脳障害を負うに至らなかったであろうことは容易に推測されるところであるから、その限りにおいて本件手術と本件脳障害との間に因果関係の存することは否定すべくもないが、本件脳障害の具体的な原因については必ずしも一義的に明らかであるとはいえない。

すなわち、前記認定の経過及び証人常本実の証言並びに鑑定人常本実の鑑定の結果からするならば、原告久子が本件手術の術中、術後を通じて幾度も低心拍出量症候群の状態に陥り、これらに基づき脳障害を生ずるに至ったことは推認することができるが、いずれの時期の低心拍出量症候群に起因して脳障害が発生したかは明らかでない。また、低心拍出量症候群の状態に陥ったこと自体の原因については、まず本件手術の施行に伴うものとして、成立に争いのない乙第二一号証の三、証人小川恭一の証言(第二回)を総合すれば、①本件手術に必然的に伴う心筋切開による心筋収縮力の減少、②本件手術の施行に不可欠な人工心肺の使用による術中心筋障害に起因する心筋収縮力の減少、③肺血管抵抗の増加による後負荷の増加などが考えられうるところである。そして成立に争いのない乙第一四号証及び証人小川恭一(第一回)、同堀越一彦の各証言によれば、本件手術を施行した昭和五二年四月七日に原告久子の肺胞組織を採取し、その病理組織検査をした結果、原告久子の肺胞組織にはところどころにニューモサイト(肺胞壁に細胞が浸潤してきて肺胞壁が肥厚する病変)の増生がみられ、また小動脈血管には内膜の増生と中膜の肥厚がみられ、全体としていわゆるヒース・エドワーズの基準では二度にあたる高度の肺炎の所見を呈していたこと、原告久子の肺高血圧症はこのような先天的な肺胞組織の異常も一因となっていることが認められ、これを左右するに足りる証拠はない。

してみると、このような原告久子が先天的にもちあわせていた肺胞組織の異常も低心拍出量症候群の発生の一因となっているものと考えられ、以上のような各種の原因がその蓋然性の高低は別にして一応疑わしいものとして考えられるのである。したがって、これらが単独に、又は複雑に組み合わさって低心拍出量症候群の状態が発生し、その結果本件脳障害が招来されたものと推認する以外にない。

原告らは、原告久子が脳障害を負うに至ったのは、約三時間に及ぶ人工心肺の使用あるいは長時間にわたる麻酔の使用に原因があると主張するが、右主張にかかる事実が低心拍出量症候群の発生ひいては脳障害の発生の原因となっていると認めるに足りる証拠はない。

三次いで、原告ら主張の各点について被告の責任を検討する。

1  原告らは、小川医師らの術前管理に過誤があったと主張するので、まずこの点について検討するに、右認定のとおり、被告病院では、胸部レントゲン写真撮影、心電図、心臓カテーテル、血管検査、心血管造影検査等の諸検査を実施し、この結果に基づき、原告久子が肺体血圧比1.14という非常に高度の肺高血圧症を伴った心室中隔欠損症であると診断したものであるが、その根治手術実施の判断にあたっては、原告久子の肺血管抵抗比の値が手術適応の限界とされる0.75に近いことから、慎重を期して兵庫県ガンセンターに依頼して肺シンチグラム検査を実施し、これにより根治手術の適応域内であることを確認したうえで本件手術の施行に踏み切っているのである。そして本件手術が必然的に心筋の切開を伴うものであり、また人工心肺の使用も不可欠である以上、これによって心筋収縮力の減少を来たし、低心拍出量症候群の状態に陥る可能性があることは術前に予測できるところではあろうが、前記認定のとおり、小川医師らは、各種検査の結果から、このまま放置したのでは肺血管の病変が進行して手術の適応外になるおそれがあり長期的な生存が望めないと判断して本件手術の施行に踏み切っているところ、成立に争いのない乙第四号証及び証人小川恭一の証言(第一回)によれば、右判断は、当時の医療水準において二歳以下の幼児に対する心室中隔欠損症の治療としては通常の選択判断であると認められ、これを覆すに足りる証拠はない。したがって、小川医師らの右判断には非難すべき点はないといわなければならない。もっとも、術後原告久子の肺胞組織を検査した結果、原告久子が高度の肺炎に罹患していたことが判明したことは前記認定のとおりであるが、証人小川恭一(第一回)、同堀越一彦の各証言によれば、右検査は肺高血圧症に罹患している患児の予後の経過を検討する資料を得るために行っているものであって、心室中隔欠損症根治手術の適応判断に当たり、必ずしも一般的に行うことが要求されているものではないこと、術後の検査結果からも本件手術の施行は一般的には手術適応の範囲内にあることが認められ、これを左右するに足りる証拠はない。してみると、本件手術の施行に先立って右検査を実施しなかったからといって術前検査に不十分な点があったということはできず、小川医師らの判断に非難すべき点はなく、小川医師らの術前検査が不十分であったとして、この点に過誤があったとする原告らの主張は理由がない。

また、原告らは、本件手術前原告久子が手術不適応の状態にあったにもかかわらず、小川医師らは漫然本件手術を施行したとも主張するが、前記認定のとおり、小川医師らは十分に検査を行って原告久子が手術適応内にあることを確認したうえで本件手術の施行に踏み切っているのであり、しかも、本件手術の施行に当たり、原告久子に手術の施行に耐えられないほどの全身状態の悪化があったとは認められないのであって、この点に過誤があったとする原告らの主張は理由がない。

2  次に、原告らは小川医師らのパッチ縫合手技に過誤があったと主張するのでこの点について検討するに、前記認定のとおり、原告久子の欠損孔は直径一二ミリメートルを有し、しかもその欠損孔が心室上稜部の直下、三尖弁の付着縁に存在するいわゆるⅢ型欠損に属するところ、証人小川恭一の証言(第一回)によれば、かかる部位に存する欠損孔の縫合は、その下部を走っている刺激伝導系を傷つけないように細心の注意を払って行うことが要求される極めて難度の高い手技であることが認められる(証人常本実の証言中パッチ縫合手技の難易性に関する部分は一般的なパッチ縫合手技について述べたものと捉えるのが相当であるから、本件のパッチ縫合手技が極めて難度の高い手技であることを否定するものではない。)。このようにパッチ縫合手技が極めて難度の高い手技であることに加えて、欠損孔の閉鎖を最終的な目的とする心室中隔欠損症根治手術においては、一回で完全な縫合ができなかったとしてもそれ自体は回復可能な事柄であり、一般的にはこれにより不可逆的な事態を招来するともいえないことをも併せ考えるならば、一回で縫合ができなかったことをもって一般的に執刀医師に過失があるとすることはできない。たしかに完全性を追求するならば、一回で完全な縫合がなされることが最も理想とされるところではあるが、神ならぬ人間の行う手術であり、かつ、医師らには手術の進行に伴いさまざまに変化する事態に対し臨機応変の措置をとることが要求されている以上、常に理想どおりの手術の進行を医師らに要求するのは酷というべく、手術の一部において理想的に進まない部分があったとしても、それが手術全体の流れにおいて回復不能な事態を招来するものでないというのであれば、これをもって手術に過失があったと認めるのは無理を強いることになって相当でない。もっとも、本件において原告久子は第一回の縫合終了後すでに低心拍出量症候群の状態に陥っていたものであることは前記認定のとおりであるから、低心拍出量症候群の状態に陥ることにより脳障害の発生が不可避であるというのであれば、原告久子はすでに右時点で脳障害の発生につき回復不能の事態に陥っていたということもでき、この点に小川医師らの過失を問題とする余地もあるが、証人小川恭一の証言(第二回)によれば、重篤な心室中隔欠損症患者に対する根治手術においては、患者は往々にして低心拍出量症候群の状態に陥りがちであり、しかも陥りながらも危険な状態を徐々に脱出して快方に向かっていく場合もあることが認められ、低心拍出量症候群の状態に陥ったとしても必ずしも脳障害の発生が不可避であるともいえず、右時点で原告久子が回復不能の事態に陥っていたということはできない。また、原告久子が低心拍出量症候群の状態に陥ったことの原因としては、前記認定のとおり本件手術の施行自体に伴うもののほか、原告久子が先天性にもちあわせていた高度の肺炎といった、いわば原告久子の素質に属するものなどが考えられるところ、原告久子が第一回の縫合終了直後すでに低心拍出量症候群の状態に陥っていたことからするならば、小川医師らが一回で完全な縫合をすることができたとしても、果たして原告久子が低心拍出量症候群の状態に陥ることを阻止しえたかについても疑問の残るところである。そしてこれらのことを考え併せるならば、小川医師らが欠損孔を一回で完全に縫合することができなかったことをもって、一つの不手際として仮に指摘することができるとしても、これを直ちに低心拍出量症候群の発生ひいては脳障害の発生との関係で因果関係のある過失と認めることはできない。そうとすると、小川医師らのパッチ縫合手技に過誤があったとする原告らの主張は理由がない。

3  進んで、原告らは第一回目の縫合終了後三尖弁の閉鎖不全を認めた小川医師らが手術を中止せず、直ちに再縫合にとりかかった点に過誤があると主張するので検討するに、前記認定のとおり、原告久子は第一回目の縫合終了直後すでに低心拍出量症候群の症状に陥っていたところ、小川医師らは閉鎖不全のまま放置したのではその日のうちにも死亡に至る可能性が高いと判断して、これを避けるために直ちに再縫合にとりかかっているのである。このような判断は医師の裁量にまかされなければならないところであって、小川医師らの手術続行の判断には何ら非難すべき点はなく、この点に過誤があったとする原告らの主張は理由がない。

なお、前記認定のとおり、本件手術施行中の人工心肺の還流操作は適正に行われており、また本件手術における人工心肺の使用時間は通算して二時間五二分(そのうち一時間一五分は再縫合のために余分に要した時間である。)であるが、鑑定人常本実の鑑定の結果及び証人常本実の証言によれば、これは生後一年未満の乳児に対する人工心肺の使用時間としては長い方ではあるものの、その許容時間は三時間程度であって、その範囲内にあると認められるから、術中の人工心肺の使用状況、使用時間が適正でなかったとはいえず、これらの点につき小川医師らに過誤は認められない。

4  さらに原告らは小川医師らの術後管理に過誤があったと主張するので検討するに、前記認定のとおり、小川医師らは術後も原告久子を集中治療室においてその容態を監視し、その容態に応じて臨機応変の措置をとっているところ、酸素の投与についても原告久子の動脈血酸素分圧の変化に対応して酸素濃度を変えてその治療に努めているのである。したがって、小川医師らの術後管理に過誤はなく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

そうすると、小川医師らには本件手術の施行中はもとより、その術前術後の管理にも過失は認められない。確かに本件手術前には運動障害、精神的発育障害等脳の障害を疑わしめる徴候のなかった原告久子が、心室中隔欠損症という脳障害とはおよそ関係のない症病の根治手術である本件手術を施行したことにより、心臓、肺をはじめ循環動態は安定し、その意味で本件手術は所期の目的を達して成功したと評価できるにもかかわらず、重度の脳障害を負うに至ったことは、まことに不幸な転帰というほかなく、原告久子本人はもとより、今後とも同原告を介護養育していかなければならない原告眞佐男及び同安代の苦衷は察するに余りあるが、しかし本件契約において小川医師らの責に帰すべき事由が見当たらない以上、その余の判断に及ぶまでもなく、被告が原告らに対し損害賠償義務を負うことはないといわなければならない。

四以上の次第で、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官坂詰幸次郎 裁判官萩尾保繁、同石原雅也は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官坂詰幸次郎)

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